2018年。長年身を置いてきた音楽業界から、私はふと思い立ってIT業界へ転職した。
音楽業界ではそれなりのポジションを任され、会社からの信頼も厚かった。居心地は悪くなかったし、続けようと思えばこの先もずっと働き続けられるだろう。しかし、ふと立ち止まったとき、「一度しかない人生、このままでいいのか」という問いが胸に浮かんだ。四十を過ぎてからの転職は、周囲から見れば無謀だったかもしれない。それでも、自分の可能性をもう一度試してみたかった。
新しい職場では、まさに新人の気持ちに戻って働いた。これまでの経験が通用しない場面も多く、戸惑うことばかりだったが、がむしゃらに食らいつく日々はどこか清々しかった。
一年が経ち、ようやく周囲からの評価も得られるようになってきた頃だった。仕事も安定し、少し肩の力を抜けるようになった矢先、体に小さな異変を感じ始めた。
それは、食後の胸焼けだった。最初は疲れや食べすぎのせいだろうと気にも留めなかった。しかし日を追うごとに症状は強くなり、胸の奥に鈍い違和感が残るようになった。
さすがに気になり、食道炎などの可能性を考えて、生まれて初めて自主的に内視鏡検査を受けることにした。インターネットで評判の良い近所の病院を探し、2019年6月、ついに予約を入れた。
当日、案内されたのは鼻から入れるタイプの内視鏡。麻酔もなく、初体験の私は涙と鼻水をこらえながら、どうにか検査を終えた。
検査結果は数日後に聞きに行く予定だったが、待てど暮らせど連絡がない。心配になりかけた頃、ようやく病院から電話がかかってきた。
「病巣が見つかりました。詳しい説明をしたいので来院してください」
短い言葉だったが、その一言が胸の奥に重く沈んだ。
病院の診察室で聞かされたのは、「MALTリンパ腫」という聞き慣れない病名だった。
医師によれば、MALTリンパ腫は悪性リンパ腫の一種で、リンパ組織の中でも粘膜関連リンパ組織(MALT)に発生する稀なタイプだという。胃や腸、涙腺、甲状腺など、全身のさまざまな粘膜にできる可能性があり、私の場合は胃に見つかった。進行は比較的ゆるやかで、早期発見であれば治療の選択肢も多い──そう説明を受けたが、「悪性」という言葉が何度も頭の中で反響した。
医師の口調は落ち着いていて、希望を持てる話もしてくれていたはずなのに、記憶は断片的で、ただ“がん”という事実だけが鮮やかに残っていた。 診察室を出て、病院のロビーに立ち尽くした。外の光が妙に白く、現実感が薄れていく。妻や子にどう伝えるべきか、言葉が見つからない。
帰りは、あらかじめ連絡しておいた妻と駅前で待ち合わせ、病状を説明しながら一緒に電車に乗った。この先自分がどうなっていくのか、不安と申し訳なささが入り混じったような気持ちになったのを覚えている。
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